踊る一寸法師と、幼い日の恐怖 ― 僕がホラー映画を好きになった理由

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踊る一寸法師と、幼い日の恐怖

僕は映画が好きだ。特にホラー映画が好きだ。
けれど、どうしてこんなにも“怖いもの”に惹かれるようになったのかと考えると、
その原点はいつも、ひとつの物語に行き着く。


江戸川乱歩『踊る一寸法師』


小学生の頃に読んだこの短編は、今も僕の心の奥に、焼け跡のように残っている。


幼い日の読書体験

あの頃、図書館で偶然見つけた『踊る一寸法師』。
題名の響きが可愛らしくて、軽い気持ちでページを開いた。
けれど、そこにあったのは想像を超えた残酷と哀しみの世界だった。


サーカス団のテントで笑い者にされる小さな男――緑さん。
団員たちに「一寸法師」「豆蔵」と呼ばれ、酒を無理やり飲まされ、
樽に逆さ吊りにされる。笑い声の中で、ただ耐える彼の姿が、子ども心にも痛々しかった。

そして、宴の流れで始まる「奇術」。
女性を箱に入れて剣を突き刺すという見世物だ。
緑さんは半ば強制的にこの芸を披露させられ、
相手役に選ばれたのは、美人芸人のお花。
彼女は緑さんをあざ笑い、わざと挑発する。
その瞬間、緑さんの中で何かが切れた。

「よくも俺を馬鹿にしたな。不具者の一念、思い知れ!」

怒号とともに、緑さんは剣を次々と突き立てる。
箱の中からはお花の悲鳴が響き、隙間から赤い血が滴る。
それでも周りの団員たちは拍手喝采――
まさか本当に殺すはずがない、そう信じ込んでいた。

だが、次の瞬間、テントに火の手が上がる。
炎と煙の中で、緑さんが何かを抱えて踊っている。
それはお花の首のようにも見えた――
誰もが息をのむなか、彼の姿は火の中に消えていく。

殺人が現実だったのか、それとも幻だったのか。
物語はそのまま、何も説明されないまま幕を閉じる。
けれど僕の心の中では、今もあの火の赤さと、緑さんの“ニヤニヤ笑い”だけが鮮明に残っている。


病室での再会

昨年、入院中にふと時間を持て余していた夜、
YouTubeで「朗読 踊る一寸法師」を見つけた。
イヤホンをつけて聴くうちに、子どもの頃に感じた恐怖が、
静かに胸の奥から蘇ってきた。

けれど今の僕には、あの物語がまったく違う意味で響いた。
ただの残酷な復讐譚ではなく、
笑われる側に押しやられた人間の誇りと怒りの叫び。
“異形”であることを笑う社会の構造そのものが、
この物語のサーカスの中に象徴されていた。

緑さんが最後に踊るのは、もはや狂気ではない。
抑え込まれていた魂が、ようやく自分を表現するために選んだ「踊り」なのだと思えてきた。


恐怖がつくった「好奇心」

僕が映画を好きになったのは、たぶん10歳の頃。
最初に夢中になったのはホラー映画だった。
血が出るとか、幽霊が出るとか――そういうものばかり選んで観ていた。
今思えば、その根には、あの『踊る一寸法師』で受けた衝撃がある。


怖いのに、なぜか惹かれる。
気味が悪いのに、なぜか目を逸らせない。
あの読書体験が、僕の中の“恐怖への好奇心”を芽生えさせたのだと思う。

乱歩の世界を通して、僕は「恐怖とは何か」を知った。
それは単なる怖さではなく、
人間の心の奥底に潜む、どうしようもない寂しさや怒りの影なのだ。


現実と幻想のあわいで

乱歩が描いたサーカスは、まるで社会の縮図だ。
笑う者と笑われる者、見る者と見られる者。
その境界が曖昧になるとき、
私たちは誰もが“緑さん”になる可能性を秘めている。

炎に包まれたテントは、現実と幻想の境界線そのものだ。
恐怖とは、実は現実の中に潜む幻想であり、
幻想とは、現実の心が作り出す逃げ場なのかもしれない。


終わりに

『踊る一寸法師』は、僕にとって「怖いけれど忘れられない」特別な物語だ。
恐怖の奥に人間の真実がある――そのことを、幼い頃の僕に教えてくれた。
そして今でも、映画館の暗闇でスクリーンを見つめるたび、
あの燃え上がるテントの光景がふと頭をよぎる。

怖いのに美しい。
乱歩の炎は、僕の心の奥でいまも静かに燃え続けている。

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