冗談が裏切った瞬間:『ジョーカー』とBee Geesが紡ぐ悲劇の系譜

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冗談が裏切った瞬間:『ジョーカー』とBee Geesが紡ぐ悲劇の系譜


過去に印象に残った動画を久しぶりに見たので、それについて書いていこうと思う。
その動画は、2019年公開の映画『ジョーカー』の印象的なシーンを編集したもので、Bee Geesの名曲「I Started a Joke」が流れていた。

ホアキン・フェニックス演じるアーサー・フレックの狂気と悲哀が、1968年にリリースされたこの楽曲と不思議なほど共鳴していた。動画を再生した瞬間、あの独特の高音ボーカルが響き、アーサーの痛々しい笑顔が画面に映し出される。そして私は改めて認識した。

この映画が描いているのは、単なるヴィランの誕生物語ではなく、「冗談」が「悲劇」に変わる瞬間の残酷さなのだと。

笑いの裏に潜む悲劇


「I Started a Joke」の歌詞は、こう始まる。

「僕が冗談を言い始めると、世界中が泣き始めた」

この一節は、アーサー・フレックという男の人生そのものを象徴している。彼は母親から「笑顔で、幸せな顔をしていなさい」と言われ続けた。コメディアンになる夢を語れば、周囲は彼を笑った。しかし、その笑いは共感ではなく嘲笑だった。


映画の中でアーサーは、自分の意志とは無関係に突然笑い出してしまう神経疾患を抱えている。彼の笑いは喜びの表現ではなく、苦痛の発露だ。地下鉄でサラリーマンたちに暴行を受けた後、彼は笑いながら涙を流す。この矛盾した表情こそが、アーサーという存在の本質を物語っている。

彼は「笑う」ことを強いられながら、誰一人として彼の痛みを理解しようとしない世界に生きていた。

引用元:映画.com


Bee Geesの楽曲が持つ優しく美しいメロディーと、その歌詞が描く重苦しい内容との対比は、まさに『ジョーカー』という作品の構造そのものだ。表面的には「笑顔」を装いながら、その内側では絶望が渦巻いている。アーサーの人生は、最初から冗談のように扱われてきた。そして彼が本当に冗談を言い始めたとき、世界は泣き始めた——いや、正確には暴動を起こし始めた。

悲劇から喜劇への転換点


「私の人生は悲劇だと思っていた。しかし今、それがコメディだと気づいた」

このセリフは、アーサーがジョーカーへと変貌する決定的な瞬間を示している。彼は自分の人生を「悲劇」として受け入れることをやめ、それを「喜劇」として再解釈することを選んだ。この転換は、単なる狂気への堕落ではなく、ある種の自己防衛メカニズムでもある。


映画の中で、アーサーは母親ペニーの介護をしながら、彼女が精神を病んでおり、自分自身が幼少期に虐待を受けていたという衝撃的な真実を知る。父親は不在で、彼には「男らしい」とされる興味も特技もなかった。社会が求める「普通」の枠組みから、彼は常に排除されてきた。そんな彼にとって、自分の人生を「喜劇」と捉え直すことは、唯一の救済だったのかもしれない。


しかし、この救済は同時に破滅でもあった。憧れのトーク番組に出演したアーサーは、司会者から嘲笑され、生放送中に彼を射殺する。この瞬間、アーサーの個人的な「冗談」は、ゴッサム・シティ全体を巻き込む暴動の引き金となった。

Bee Geesの歌詞にある「悪ふざけが自分に返ってくるなんて思わなかった」という一節は、まさにこの状況を予言しているかのようだ。アーサーは冗談を始めたつもりだったが、その冗談は彼自身を飲み込み、制御不能な暴力の連鎖を生み出した。

「冗談は僕自身だった」という気づき

引用元:Reddit

「I Started a Joke」の核心は、「自分が死んでも、世界は回り続ける。自分の存在なんて、ただのジョーク」という絶望的な認識にある。アーサーもまた、この真実に直面していた。彼がどれだけ苦しもうと、どれだけ笑おうと、世界は彼を無視し続けた。彼の存在は、誰にとっても重要ではなかった。


しかし、ジョーカーとして覚醒した後、状況は一変する。逮捕された彼を乗せたパトカーが暴徒に襲撃され、彼は民衆に担ぎ上げられる。血まみれの笑顔で立ち上がる彼の姿は、もはや無視される存在ではなく、「悪のカリスマ」として崇拝される存在だった。

皮肉なことに、アーサーは「ジョーカー」という仮面を被ることで、初めて世界から認識されたのだ。

引用元:Tsurudama.jp

この逆説こそが、『ジョーカー』という作品の最も恐ろしい部分である。社会から疎外された人間が、暴力という手段を通じてしか自己実現できない世界。アーサーの「冗談」は、彼自身の存在証明であり、同時に社会への復讐でもあった。Bee Geesの楽曲が持つ「逆説的イメージの魅力」は、まさにこの構造を音楽的に表現している。

優しいメロディーの裏に潜む絶望、笑顔の裏に隠された狂気——これらは表裏一体なのだ。

観客に問いかける倫理観


映画の結末で、アーサーは精神病院でカウンセリングを受けている。彼は何かを思い出したように笑い出し、「君には理解できないよ」と呟く。この曖昧な終わり方は、観客に多くの解釈の余地を残している。アーサーの物語は本当に起こったことなのか、それとも彼の妄想なのか。そして、私たち観客は彼に共感すべきなのか、それとも彼を断罪すべきなのか。


『ジョーカー』は、観る者の倫理観を揺さぶる作品だ。アーサーの行動は決して正当化できるものではない。しかし、彼を生み出したのは、無関心と格差に満ちた社会でもある。映画を見た後、私たちは自問せざるを得ない。

もし自分がアーサーの立場だったら、どうしただろうか。
そして、私たちの社会には、第二、第三のアーサーが存在しているのではないか。

引用元:Netflix

Bee Geesの「I Started a Joke」を聴きながら『ジョーカー』の映像を見ると、この問いはさらに深まる。楽曲の持つ普遍的な孤独感と、映画が描く具体的な社会的疎外が重なり合い、一つの大きな物語を形成する。それは、「笑い」と「涙」、「喜劇」と「悲劇」が表裏一体であるという、人間存在の根源的な矛盾についての物語だ。

続編を見ていない今だからこそ


2024年には続編『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が公開されたが、批評的にも商業的にも失敗に終わったという。

私はまだこの続編を見ていない。そして、今はそれでいいと思っている。なぜなら、2019年の『ジョーカー』は、それ自体で完結した一つの寓話として機能していると僕は思っているからだ。


あの動画——『ジョーカー』の映像に「I Started a Joke」を重ねた作品——は、おそらくファンによる二次創作だろう。公式なサウンドトラックには含まれていない楽曲だ。しかし、だからこそ、この組み合わせは新鮮で、示唆に富んでいる。

誰かが、この映画とこの楽曲の間に共通する何かを感じ取り、それを形にした。その「何か」とは、人間の孤独と、社会の無関心と、そして「冗談」が「悲劇」に変わる瞬間の恐ろしさだ。


『ジョーカー』は、単なるコミック映画ではなく、私たちが生きる現代社会の暗部を映し出す鏡であり、同時に、人間の心の脆さと強さを描いた普遍的な物語でもある。そして、Bee Geesの「I Started a Joke」は、その物語に完璧な音楽的注釈を加えている。


「僕が冗談を言い始めると、世界中が泣き始めた」——この一節は、今も私の心に響き続けている。

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