ひょっとこの面をかぶった男の最期
芥川龍之介の初期作品「ひょっとこ」は、大正時代の浅草を舞台にした短編である。春の花見シーズン、隅田川にかかる吾妻橋の上には、花見船を見物しようと大勢の人々が集まっている。川を下る船の上では、酔った客が踊ったり唄ったりして、橋の上の見物人たちはそれを眺めて笑い声を上げている。
そこへ紅白に飾られた一艘の伝馬船がやってくる。船の上では馬鹿囃子が始まり、ひょっとこの面をかぶった背の低い男が踊り出す。この男こそが主人公の山村平吉、四十五歳の絵具屋である。
平吉は酒を飲むと別人のようになる男だった。普段は誰にでも腰が低く、どこかひょうきんな愛嬌のある人物だが、酒が入ると気が大きくなり、誰の前でも遠慮がいらない気持ちになる。そして必ず馬鹿踊りを始めるのだ。特にひょっとこ舞をすると、いつまでも踊っていられる。
しかしその日、酒が回って足取りが怪しくなった平吉は、川蒸気の出した横波に揺られて船の中に転げ落ち、脳溢血で即死してしまう。橋の上の見物人たちが頓死を知らされたのは、それから十分後のことだった。芥川は最後にこう記す。「面の下にあった平吉の顔はもう、普段の平吉の顔ではなくなっていた。ただ変わらないのは、ひょっとこの面ばかりである」。
この作品を読むたびに、私はカフェという空間の持つ不思議な力について考えずにはいられない。
カフェが提供する「仮面」
カフェのカウンターに立って一杯のコーヒーを淹れる。豆を挽き、湯を注ぎ、抽出する。この何気ない所作の繰り返しが、私の日常である。鞆という小さな港町でカフェを営んで十年以上になるが、時折ふと思うことがある。このありふれた日常の中で、お客様にとっての「特別な一瞬」を提供できているだろうか、と。
平吉にとって、ひょっとこの面をかぶって踊ることは、日常という重力から解き放たれる唯一の手段だった。絵具屋という地味な商売、妻と子供を抱えた生活、腰を低くして生きる日々。その中で平吉は、酒とひょっとこという「仮面」によってのみ、別の自分になることができた。
カフェもまた、そのような「仮面」を提供する場所なのではないだろうか。
私の店を訪れるお客様の多くは、日常の延長線上でコーヒーを飲みに来られる。しかし、その一杯のコーヒーが、ほんの束の間、日常から離れる「非日常」を演出することがある。仕事帰りの疲れた表情で入ってきた方が、カウンターに座ってコーヒーを飲むうちに、ふっと肩の力が抜けていく瞬間。そんな表情の変化を見るとき、私はこの空間が提供しているものの意味を感じる。
「ひょっとこ」の平吉が求めていたのは、おそらく笑いそのものではなかった。橋の上の見物人たちは確かに彼を笑った。しかし平吉が本当に求めていたのは、普段の自分ではない自分になれる瞬間、日常の制約から解き放たれて自由になれる時間だったのではないか。それは承認欲求とも少し違う。ただ純粋に、別の自分になれる喜び。仮面をかぶることで初めて得られる解放感。
カフェという場所が提供できるのも、まさにそのような「仮面」なのかもしれない。変わらない日常だからこそ生まれる、特別な時間。ある常連のお客様は、毎週決まった曜日の決まった時間に来店され、いつも同じブレンドコーヒーを注文される。「ここに来ると、ほっとするんです」と以前おっしゃっていた。日常の中の非日常。それは大げさな非日常ではなく、日常の中にそっと差し込まれる特別な瞬間なのだ。
カフェオーナーが求める、もう一つのカフェ
しかし、ここで告白しなければならないことがある。
私は自分のカフェで日々、お客様に「日常の中の非日常」を提供している。一杯一杯丁寧にコーヒーを淹れ、居心地の良い空間を演出し、お客様がほっとできる時間を作ろうと努めている。それが私の仕事であり、誇りでもある。
ところが、その私自身が、仕事が終わると車で二十分ほどかけて行きつけのカフェに向かい、紅茶を飲むのだ。

最初は矛盾を感じた。自分がカフェを営んでいるのに、なぜ他のカフェに行くのか。自分の店で淹れたコーヒーを飲めばいいではないか。しかし気づいたのだ。私もまた、平吉と同じように「仮面」を必要としているのだと。
店にいる間、私はカフェオーナーという「仮面」をかぶっている。お客様を迎え、コーヒーを淹れ、笑顔で対応する。それは演技というほど大げさなものではないが、確かに一つの役割を演じている。そして仕事が終わったとき、私はその「仮面」を外したくなる。カフェオーナーではなく、一人の客として、誰かに淹れてもらった紅茶を飲みたくなるのだ。
行きつけのカフェに座って紅茶を飲む時間は、私にとっての「日常の中の非日常」である。自分が提供している側にいるからこそ、提供される側になることの心地よさを、より深く理解できる。平吉がひょっとこの面をかぶって踊ったように、私は客という立場に身を置くことで、日常から少しだけ離れることができる。
この経験は、私のカフェ経営にも活きている。客としての視点を持ち続けることで、お客様が何を求めているのか、どんな空間であれば心から寛げるのかが、より深く理解できるようになった。平吉が普段の自分と酔った自分の間で揺れ動いたように、私もカフェオーナーとしての自分と、一人の客としての自分の間を行き来している。
複数の顔を持つということ
芥川は作品の中で、平吉が平素よく嘘をつくことも描いている。「人と話していると自然に言おうとも思わない嘘が出てしまう」。つまり平吉は、日常においても一種の「仮面」をかぶって生きていたのだ。普段の平吉、酔った平吉、そしてひょっとこの平吉。どれが本当の平吉なのか、本人にも分からなかった。
これは現代を生きる私たちにも通じる話ではないだろうか。誰もが何らかの「仮面」をかぶって生きている。職場での顔、家庭での顔、友人といる時の顔。そのどれもが本当の自分であり、同時にどれも完全な自分ではない。
私自身、カフェオーナーとしての顔、客としての顔、そして一人の人間としての顔を持っている。店では笑顔で接客し、行きつけのカフェでは静かに紅茶を飲み、家に帰れば一人の時間を過ごす。そのどれが本当の私なのか、おそらく答えはない。すべてが本当の私であり、すべてが部分的な私なのだろう。
平吉の死に際、ひょっとこの面だけが変わらずそこにあったという描写は、深い意味を持っている。それは、人間の本質というものが、実は「仮面」そのものなのかもしれないということを示唆している。私たちは様々な「仮面」を使い分けながら生きているが、その「仮面」こそが私たち自身なのではないか。
カフェという空間は、そんな「仮面」を少しだけ緩める場所なのかもしれない。完全に外すわけではないが、少しだけ楽にできる。ひょっとこの面が笑いを生んだように、カフェでの一杯のコーヒーや紅茶が小さな笑顔を生む。
束の間の輝きを信じて
平吉のひょっとこ舞が悲劇で終わったように、カフェという空間が提供する非日常もまた、あくまで一時的なものでしかない。コーヒーを飲み終えれば、お客様はまた日常へと戻っていく。私自身も、行きつけのカフェで紅茶を飲み終えれば、また明日店を開ける準備をしなければならない。
しかし、その束の間の時間に意味がないわけではない。むしろ、一時的だからこそ、その瞬間は輝きを持つ。
平吉の踊りを見て橋の上の人々が笑ったように、カフェでのお客様の笑顔もまた、私にとっての喜びである。同時に、平吉の最期が示すように、そこには常に儚さが伴う。カフェという空間が提供できる幸福は一時的で、脆く、すぐに日常に飲み込まれてしまう。
それでも私がカフェを続けているのは、その一瞬の価値を信じているからだ。そして自分自身も、行きつけのカフェでその一瞬を求めているからだ。平吉がひょっとこの面をかぶって踊り続けたように、私は一杯一杯コーヒーを淹れ続ける。それが日常という名の舞台で演じられる、小さな非日常の演出なのだと思う。
芥川が「ひょっとこ」で描いたのは、人間の二面性や本当の自分を見失った男の悲劇だったかもしれない。しかし別の読み方もできる。それは、日常から逃れようとする人間の切実な願いと、それを叶える「仮面」の力についての物語でもある。
カフェという商売を営む者として、私ができることは限られている。グランドな非日常を提供することはできない。しかし、日常の中にそっと差し込まれる小さな特別を、一杯のコーヒーという形で届けることはできる。それは平吉のひょっとこ舞のように、笑いと温かさを生む瞬間かもしれない。
店のカウンターに立ち、豆を挽く音を聞きながら、私は今日も考える。この一杯が、誰かにとっての「日常の中の非日常」になることを願って。そして今日も仕事が終われば、私自身が客として、その「日常の中の非日常」を味わいに行くだろう。車を走らせて二十分、行きつけのカフェで紅茶を飲む。その時間が、明日また「仮面」をかぶって店に立つための、小さな充電になる。
ひょっとこの面が笑いを誘ったように、この一杯のコーヒーや紅茶が小さな笑顔を生むことを信じて。それが、カフェという場所が持つ、ささやかだけれど確かな力なのだと思う。

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