やっと辿り着いた、すべての始まりへ
ホラー映画好きとして、死ぬまでに見ておきたい映画がいくつかある。『エクソシスト』『サスペリア』『悪魔のいけにえ』――名作の数々を観てきたが、恥ずかしながら、ずっと観そびれていた一本があった。それが、1922年に製作されたF・W・ムルナウ監督のサイレント映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』だ。

「100年以上前の白黒サイレント映画なんて、今観ても退屈なのでは?」そんな先入観が、私の足を遠ざけていた。しかし、先日ようやく腰を上げてYouTubeで検索すると、意外にもいくつかの修復版が見つかった。著作権が失効しているため、パブリックドメインとして無料で公開されているのだ。
そして鑑賞した結果、私は深く後悔することになる。なぜもっと早く観なかったのか、と。
Google翻訳片手に挑む、1922年の恐怖
再生してすぐに気づいたのは、これがサイレント映画だということの意味だった。音声はなく、場面の合間に挿入される字幕がすべてドイツ語なのである。
画面に映るゴシック体の文字:「Der Tod ist nicht das Ende…」
慌ててスマホのGoogle翻訳を起動した。スクリーンショットを撮り、画像翻訳にかける。
「死は終わりではない…」と出た。なるほど、不穏だ。
次のシーン。また字幕が出る。「Graf Orlok wünscht ein Haus in unserer Stadt zu kaufen(オルロック伯爵が我が街に家を購入したいと望んでいる)」。また翻訳。
正直に言うと、最初は面倒だった。映画を観るたびに一時停止して、スマホで翻訳して、また再生する。このリズムに慣れるまで15分ほどかかった。
だが、不思議なことに、この「手間」が次第に没入感を高めていった。自分の手で一つ一つ言葉を解読していく作業が、まるで古文書を読み解くような感覚を生む。100年前のドイツで作られた映画を、100年後の日本で、スマホ片手に観ている――この時空を超えた体験そのものが、映画の神秘性を増幅させた。
吸血鬼は本当に日光で死ぬのか?

画面には美しく染色された映像が流れる。黄色く染められた昼のシーン、青く染められた夜のシーン。サイレント時代の映画が、こんなにも視覚的に豊かだったとは知らなかった。
そして、この映画こそが、現代の私たちが当たり前だと思っている「吸血鬼のルール」を創造した作品だと知る。
現代のホラー映画やドラマを観ていると、吸血鬼が日光を浴びると灰になって消滅するのは常識だ。『バフィー~恋する十字架~』でも『トワイライト』でも『ヴァンパイア・ダイアリーズ』でも、この設定は揺るがない。だが、考えてみてほしい。この「日光=死」というルールは、一体いつから始まったのだろうか?
驚くべきことに、吸血鬼伝説の原点とも言えるブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』(1897年)には、この設定は存在しない。原作のドラキュラ伯爵は日中も活動できる。力が弱まるだけで、死にはしないのだ。
では、誰が「日光で死ぬ吸血鬼」を発明したのか?その答えこそが、今私が観ている『吸血鬼ノスフェラトゥ』なのである。
呪われた傑作の誕生
字幕に出てきた製作会社名「Prana-Film」を翻訳すると、プラーナ・フィルムと読む。調べてみると、この小さなドイツの製作会社が、ストーカーの『ドラキュラ』を無許可で映画化したものだとわかった。著作権侵害を恐れたのか、登場人物名はすべて変更された。ドラキュラ伯爵は「Graf Orlok(オルロック伯爵)」に、ジョナサン・ハーカーは「Thomas Hutter(トーマス・ハッター)」に、ミナは「Ellen(エレン)」へ。
ストーカーの未亡人フローレンスはこれを知って激怒し、裁判に訴える。彼女は勝訴し、裁判所はすべてのフィルムとネガの破棄を命じた。プラーナ・フィルムは倒産。この映画は、文字通り「死刑判決」を受けたのだ。
しかし、奇跡は起きた。判決前に海外へ流出していた少数のプリントのおかげで、映画は完全には消滅しなかった。やがて著作権が失効すると、『ノスフェラトゥ』は映画史に残る古典として復活を遂げる。まるで、劇中の吸血鬼のように。だから今、私はYouTubeでこれを観ることができているのだ。
物語:1838年、疫病を運ぶ影
画面に映る字幕:「1838年、Wisborg(ヴィスボルグ)にて」。Google翻訳を通して、物語を追っていく。
北ドイツの港町ヴィスボルグ。若き不動産業者トーマス・ハッターは、上司ノックの命令で、遥か東方トランシルヴァニアのオルロック伯爵のもとへ向かう。伯爵がヴィスボルグに家を購入したいというのだ。

新妻エレンを友人夫妻に託し、ハッターは旅立つ。
カルパチア山脈の村での字幕:
「Nosferatu! Sprechen Sie nicht diesen Namen aus!(ノスフェラトゥ!その名を口にするな!)」。
村人たちは顔を青ざめさせ、誰も先へ進もうとはしない。ハッターだけが、不気味な黒い馬車に乗って伯爵の古城へと向かった。
城で待っていたのは、異様な容姿の老人だった。禿頭、尖った耳、ネズミのような前歯、鉤爪のような長い指――。演じるのはマックス・シュレック。メイクの技術が未熟な時代に、この不気味さは圧倒的だ。

夕食の席でハッターが誤って指を切ると、伯爵はその血に異常な執着を見せる。翌朝、ハッターは首に二つの刺し傷を見つけるが、字幕には
「Nur Mücken…(蚊に刺されただけだ…)」とある。彼はそう信じたいのだ。
だが、宿屋から持参した古い書物には、吸血鬼について書かれていた。
「Nosferatu trinkt das Blut der Lebenden(ノスフェラトゥは生者の血を飲む)」。
そして夜、ハッターが恐怖に震えていると、扉がゆっくりと開き、オルロック伯爵が影のように侵入してくる――。音のない映像だからこそ、この静寂が恐ろしい。
翌日、地下室で棺の中に横たわる伯爵を発見したハッターは、ようやく真実を理解する。
疫病の船
オルロック伯爵は、土の詰まった棺と共に船「Empusa(エンプーサ号)」でヴィスボルグへ向かう。船内では次々と船員が謎の死を遂げ、やがて無人の幽霊船となってヴィスボルグ港に漂着する。船倉からは無数のネズミが這い出し、街へと散っていった。
「Die Pest!(ペストだ!)」
一方、必死に帰路を急いだハッターは、エレンと再会する。しかし、オルロック伯爵は既にヴィスボルグに到着し、ハッターの家の向かいの廃屋に潜んでいた。そして街には、ペストが蔓延し始める。

Das Cabinet des Christian Erdmann
エレンは、夫が持ち帰った吸血鬼の書物を読む。そこに書かれていた重要な一節がこれだ
「Nur eine Frau mit reinem Herzen kann ihn vernichten(純粋な心を持つ女性だけが、彼を滅ぼせる)」。
夜明けまで吸血鬼を引き留めれば、太陽の光によって滅びる、と。
エレンは決意する。愛する夫と街を救うため、自分を犠牲にすることを。
クライマックス:最初で最後の、日光による死
その夜、エレンは窓を開け放ち、オルロック伯爵を誘い込んだ。夫には医師を呼びに行かせ、二人きりになる。
向かいの廃屋から、伯爵の影が壁に映る。あの有名なシーンだ。長い爪の影が、ゆっくりと階段を這い上がる。音がないからこそ、この影の動きだけに視線が釘付けになる。
伯爵はついにエレンの首筋に牙を立てる。エレンの血の甘美さに夢中になった伯爵は、時間を忘れた。刻一刻と夜が明けていく。
「Der Hahn kräht!(鶏が鳴く!)」
朝日が窓から差し込む――。

太陽の光を浴びたオルロック伯爵の身体が、煙のように揺らめき、そして消えた。特殊効果としては単純な逆回し撮影だが、その象徴性は絶大だ。
夫が戻ったとき、エレンは既に息絶えていた。しかし彼女の犠牲によって、吸血鬼は滅び、ヴィスボルグを覆っていたペストも消え去ったのだった。
ここに、映画史上初めて、「日光によって死ぬ吸血鬼」が誕生したのである。
創造されたジャンルの約束事
最後の字幕「ENDE(終わり)」を翻訳し終えたとき、私は震えていた。100年前のサイレント映画を、Google翻訳片手に観るという奇妙な体験が、これほどまでに感動的だとは思わなかった。
オルロック伯爵の影が階段を這い上がるシーン、エレンの胸に伯爵の手の影が忍び寄るシーン――音のない世界だからこそ、映像そのものが純粋な恐怖として迫ってくる。そして何より、朝日を浴びて消滅する伯爵の姿は、後の100年間に作られたあらゆる吸血鬼映画の原型となった。
原作小説にはなかったこの設定を、なぜムルナウたちは採用したのか?一説には、クライマックスに劇的な視覚効果を与えるためだったという。また、著作権問題を回避するため、原作との差別化を図ったとも言われる。
理由はどうあれ、この選択は映画史を変えた。1931年のユニバーサル版『魔人ドラキュラ』、1979年の『死霊伝説』、2000年代以降の無数の吸血鬼作品――すべてが『ノスフェラトゥ』が創造したルールを継承している。
観て良かった、心からそう思う

「死ぬまでに観ておきたい映画」を、ようやく一本消化できた。YouTubeで無料で観られるというハードルの低さと、Google翻訳という現代のテクノロジーのおかげで、100年の時を超えた映画体験ができた。
正直に言えば、字幕を一つ一つ翻訳する作業は面倒だった。だが、その手間が逆に、一つ一つのシーンを丁寧に観る姿勢を生んだ。早送りできない、飛ばせない。ドイツ語の字幕を解読しながら観る――この「不便さ」が、100年前の観客と同じ時間の流れを共有する感覚を与えてくれた。
ホラー映画ファンを自称しながら、ジャンルの原点を知らなかった自分が恥ずかしい。同時に、この先何十年観続けるであろう吸血鬼映画の見方が、確実に変わった。これからドラキュラが日光を恐れるシーンを観るたび、私は1922年のあのオルロック伯爵を思い出すだろう。
もしあなたが私と同じように、「古い映画は退屈そう」と敬遠しているなら、騙されたと思ってYouTubeで検索してほしい。Google翻訳片手でもいい。『吸血鬼ノスフェラトゥ』は、100年の時を超えて、今も私たちに恐怖を与え続けている。
そして、すべての吸血鬼が日光で死ぬようになった、その瞬間を目撃できる。映画史における、たった一度きりの「創造の瞬間」を。

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