はじめに:法の外側で命を救う者たち
医師免許を持たない、あるいは持っていても医療界の枠組みから外れた医師たち。彼らは法や制度の外側に立ちながら、優れた技術で患者の命を救う。手塚治虫が1973年に生み出した「ブラック・ジャック」と、2012年にテレビ朝日で始まったドラマシリーズ「ドクターX〜外科医・大門未知子〜」。この二つの作品に登場する”規格外の医師”像は、約40年の時を経て、日本社会における医療と倫理の問題意識がどう変化したかを映し出している。
ブラック・ジャック:無免許という十字架を背負う孤高の外科医

間黒男(はざまくろお)、通称ブラック・ジャック。彼は正規の医学教育を受け、医師国家試験にも合格したが、インターン時代に外科部長の決定に反して独断で手術を行ったため医師免許を剥奪された。以降、彼は無免許医として活動し、法外な治療費を要求することで知られる存在となった。
「流氷、キマイラの男」が描く倫理的極限
1993年に制作されたOVA『ブラック・ジャック KARTE 1: 流氷、キマイラの男』は、ブラック・ジャックの医師としての倫理観が極限まで試される物語として、彼の本質を浮き彫りにしている。
物語は、多国籍企業の会長クロスワード・マナビスの依頼で、ブラック・ジャックが孤島ラコスキー島を訪れるところから始まる。クロスワードは「キマイラ病」という謎の病気に苦しんでいた。

一日に4〜5回の発作が起き、激しい痛みとともに極度の脱水症状を引き起こす。患者は大量の水を飲むことでしか痛みを和らげられないが、その水はすぐに全身から噴き出してしまう。これまで80人もの医師が診察したが、誰一人として原因を特定できなかった。

島でブラック・ジャックは、キマイラ病に苦しむ村人たちの存在を知る。島の女医ミネアの兄フレディもこの病と戦い、やがて亡くなってしまう。キマイラ病は150年前に大流行した風土病で、7年前から再び発症し始めていたのだ。
物語の転換点は、クロスワードが衝撃的な過去を語る場面である。彼は実はこの島の出身で、10歳の時に家族がキマイラ病を発症した。村人たちは病気の広がりを恐れ、クロスワード以外の家族全員を殺して焼き討ちにしたのだった。逃げる途中で井戸に落ち、大量の水を飲んだことで一時的に発病を免れたクロスワードは、その後富を築き、再び島に戻ってきた。しかし、それは復讐のためではなく、キマイラ病の謎を解明するためだった。

ブラック・ジャックは治療の手がかりを掴めずにいたが、ある結論に達する。発作中の患者の胸を開いて調べるしかない——しかし、苦しんでいる患者の体内を調べることは非常に危険な賭けである。驚くことに、クロスワードは自らこの手術を申し出る。次の発作が最後になると確信した彼は、「発作中に胸を開いてキマイラがどう動いているのか診てほしい。あんただって診たいはずだろ!」とブラック・ジャックに懇願するのだ。
その頃、村人たちは再び怒りを募らせていた。クロスワードが地下水を大量に汲み上げているせいで村の井戸が枯れかかっており、彼が復讐のために島に戻ってきたと誤解したのである。60年前と同じように、村人たちは武器を手に城へと押し寄せる。
手術の日、クロスワードは手術室に向かう前に「おはよう、小百合」とつぶやく。妻への深い愛情が込められた何気ない一言だった。
村人たちが城内に押し入り、混乱が広がる中、ブラック・ジャックはピノコを助手に手術を開始する。クロスワードの胸を開くと、大動脈の壁の外側と内側の間に青白く光るウイルスを発見する。誰も気づかなかった場所に潜んでいた病原体——その発見の直後、クロスワードは息を引き取ってしまう。
村人たちが地下の手術室に到着した時、そこにはクロスワードの亡骸を抱きかかえたブラック・ジャックが立っていた。彼は怒りを込めて村人たちに告げる。
「この人はだれも憎んでいなかった。ただキマイラだけを憎んでいた。自分の死でキマイラの原因がわかるかもしれないと信じていた」
そして「道を開けろ!この人を奥さんが待っている」と叫び、村人の壁を押し退けながらクロスワードを妻のもとへ運んでいく。
制度を超えた医師と患者の約束
この物語が示すのは、ブラック・ジャックの無免許性が単なる設定ではなく、彼の医療倫理の本質を表しているという点である。通常の医療倫理から考えれば、発作中の患者を手術することは狂気の沙汰である。しかし、彼の判断は科学的な探究心とクロスワードの「病の正体を暴きたい」という強い意志が結びついた結果であり、そこには制度の枠を超えた医師と患者の純粋な約束が存在する。
ブラック・ジャックが「無免許」であることの意味は、彼が医療制度の権威や従来の医学的常識に縛られず、患者の意志と生命という絶対的な価値にのみ忠実であることの証なのだ。80人の正規の医師たちが安全な治療法を探して諦める中、無免許医のブラック・ジャックだけが、患者の自己犠牲的な決断を尊重し、科学的真実を追求する覚悟を貫いた。
しかし、その孤独は深い。クライマックスでクロスワードの亡骸を抱えて村人たちに「道を開けろ!」と叫ぶシーンは、彼の孤独の極致を示している。彼は患者との約束を果たしたが、その行為は社会からは理解されず、村人たちの憎しみに包まれる。これこそが、制度の外側で正義を貫く者が背負う運命なのである。
ドクターX:フリーランスという戦略的立ち位置

それから約40年後、大門未知子というキャラクターが登場する。彼女は正規の医師免許を持ち、驚異的な外科技術を誇るが、どの病院にも所属しない「フリーランス外科医」である。「私、失敗しないので」という決め台詞とともに、彼女は大学病院の権力争いや派閥政治を超越し、純粋に手術の成功だけを追求する。

ブラック・ジャックとの最大の違いは、大門未知子が「合法的に」医療制度の外側に立っている点である。彼女は医師免許を持ち、必要な手続きを踏んで病院と契約を結ぶ。その意味で、彼女の立ち位置は「違法」ではなく「非正規」である。この違いは非常に重要だ。
1970年代のブラック・ジャックが無免許であることで社会から排除され、孤独と重荷を背負ったのに対し、2010年代の大門未知子はフリーランスという選択を通じて、むしろ医療制度の腐敗や非効率を批判する立場を得ている。
彼女の「私、失敗しないので」という台詞は、単なる自信の表明ではなく、医療における結果責任の明確化であり、組織の論理に埋もれて責任の所在が曖昧になる大病院への痛烈な批判なのである。
時代の変化:個人から組織への批判対象の移行
この二作品における「規格外の医師」像の変遷は、日本社会の医療への問題意識の変化を表している。
1970年代、医療制度は整備途上で、医師免許の権威が問われていた。ブラック・ジャックの無免許性は、「資格か技術か」という根本的な問いを投げかけた。80人の有資格医師が失敗した難題を無免許のブラック・ジャックだけが解決する構図は、制度より個人の能力と倫理が重要だというメッセージとして、既存の権威への挑戦を促した。
一方、2010年代以降、医療制度は整備され医師免許の権威も確立したが、新たな問題が浮上した。大学病院の派閥争い、医局制度の硬直化、過剰な官僚主義、患者不在の組織防衛である。大門未知子が批判するのは「資格」ではなく、医師たちが所属する「組織」なのである。
孤独と連帯:医師は一人で戦えるのか

最も本質的な違いは、彼らの「孤独」の質にある。
ブラック・ジャックは徹底して孤独である。ピノコという存在はいるものの、彼女は助手であり家族であって、仲間ではない。彼は常に一人で決断し、一人で責任を背負う。『流氷、キマイラの男』でクロスワードの亡骸を抱えて村人の壁を押し退ける姿は、まさにその孤独の極致である。彼を理解する者はいない。それでも彼は患者との約束を果たす。

一方、大門未知子は表面的には孤高を装っているが、実は多くの協力者に囲まれている。麻酔科医の城之内博美、看護師の岡部淳子(のちに医師)、そして何より、彼女のスキルを評価し、招く病院関係者たち。彼女は組織に属さないが、決して孤立していない。むしろ、彼女の周囲には彼女の能力を認め、支援する人々のネットワークが存在する。
この違いは、個人の力だけで社会と向き合えた時代から、ネットワークと連帯なくしては生きられない現代への移行を象徴している。
結論:規格外であり続けることの意味
ブラック・ジャックと大門未知子。この二人の「規格外の医師」は、それぞれの時代における医療と社会の問題を映し出す鏡である。
ブラック・ジャックは、資格や制度という形式よりも、技術と倫理という実質が重要であることを示した。彼の無免許性は、既存の権威への根本的な問いかけであり、その孤独は、正義を貫く者が支払う代償の重さを物語っている。クロスワードの命と引き換えに病の謎を解明し、その亡骸を妻のもとへ運ぶという行為は、制度の外側でしか成立しない、医師と患者の純粋な約束の結実である。
大門未知子は、資格を持つ医師たちが構成する組織そのものの腐敗を批判する。彼女のフリーランスという立ち位置は、組織の論理から自由であることで初めて患者本位の医療が可能になるという、現代的なジレンマを突きつけている。
しかし、両者に共通するのは、「規格外であり続けることで、医療の本質を守る」という逆説である。彼らは制度の外側に立つことで、かえって医療が本来持つべき姿を体現している。

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