カフェをやっていると、日々“ささやかな事件”に出くわす。
お客さん同士の勘違い、言葉にできない本音、表向きの笑顔と裏腹な空気。警察を呼ぶほどの話ではないのに、人と人の関係はいつだって「裏」と「表」の両面でできている。
そんな現実を見ていると、世の中は善と悪で簡単に線引きできるものではないと、つくづく思わされる。
夜、仕込みの時間になると店内は静まり返る。換気扇の低い音と、まな板の乾いた感触だけがやけに鮮明になる。
その沈黙の中で、昼間の出来事がふとよみがえる。
「あの対応は、正しかったのか」
「本音を飲み込んでよかったのか」
「もっと違うやり方があったのではないか」
コーヒーの香りが残る店内で、そんな問いが頭を回る。
その夜に観返していたのが『クロコーチ』(2013/TBS)だった。
主人公の黒河内圭太は、ゆすり・たかり・証拠隠滅を平然とやり、権力の醜聞を“武器”にする悪徳刑事だ。
だが彼の眼差しは、腐った権力の奥に眠っているもっと巨大な悪を見据えている。法を守る者が踏み込めない領域を、法を踏み越えて暴こうとする。
この逆説的な姿こそ、アンチヒーローという存在の根っこにある。
なぜ“悪”の主人公が胸に刺さるのか。
その理由はおそらく単純で、人間は「正義だけでは救えない現実」を知っているからだ。

引用元:ナタリー
真面目な人間が報われないことがある。
嘘をついた側が笑って終わる夜がある。
正論をぶつけても誰も幸せにならない場面が、人生には確かに存在する。
黒河内は、そうした矛盾を前提に行動している。
彼の存在が妙にリアルに感じられるのは、人間が本来持っている“影”を代わりに背負っているからだ。
アンチヒーローとは、清く正しいヒーローの対極ではなく、同じ真実を別角度で照らす光なのだと思う。

もちろん、現実の私は法律を破るわけにもいかない。
それでも、人を守るために建前を捨てる場面ならある。
正しい配慮より、正しくない本音のほうが救いになる瞬間も、確かにある。
カフェという小さな世界でも「善悪の境界線」は常に揺れている。
今日もまた、いろいろな事情を抱えた人たちが店のドアを開ける。
その一つ一つに完璧な正解など存在しない。
だから私は、夜の仕込みの静けさの中で問い続ける。
正しさだけでは救えない夜を、どう生きるのか。
黒河内のようなやり方は到底できない。
だが、あの視線が確かに存在する世界の中で、私はまた明日のコーヒーを淹れることになる。
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