ロサンゼルス・ドジャースは日本時間10日(現地時間9日)、フィラデルフィア・フィリーズを2-1で下し、ナショナルリーグディビジョンシリーズ(NLDS)突破を決めた。延長11回、劇的なサヨナラ勝ちの裏には、フィリーズの若き投手オライオン・カーカリングの痛恨のミスがあった。
2死満塁、打者アンディ・パヘスの打球をカーカリングはファンブル。焦った彼は捕手の指示を無視し、本塁へ送球したが、それは大きく逸れてしまい、三塁キム・ヘソンがホームを踏んで試合終了。カーカリングは後に「頭が真っ白になった」と語ったという。
この言葉に、私は妙な親近感を覚えた。
極限の緊張、判断の迷い、そしてその一瞬がすべてを変えてしまう感覚。それは、私が鞆の浦の祭りで「山車の引き回し」に関わっていたときにも、何度も経験したことだった。
狭い路地を曲がる瞬間、綱を握る手に伝わる重み、後方から飛ぶ声。誰かの判断が一瞬遅れれば、山車は止まり、流れが乱れる。でも、誰かがすぐに声をかけ、皆で修正し、また前へ進む。それが祭りの本質であり、地域のつながりの象徴でもある。
カーカリングのミスに対して、フィリーズファンがSNSで見せた「責めるより支える」姿勢は、アメリカのスポーツ文化の成熟を感じさせるものだった。「誰にでもミスはある」「彼はこれから学ぶだろう」といった言葉が並び、敗者に寄り添う空気が広がっていた。
一方、日本では、こうした感情を表に出すことが少ない。SNSでは批判的な意見が目立ち、匿名性の中で冷静さを装った言葉が並ぶ。日本人は「口に出さない美徳」を重んじるが、それが時に冷たさとして映ることもある。
鞆の浦の祭りでは、運営上の問題や気になることがあれば、すぐに言う習慣がある。遠慮も忖度もない。酒が入れば口論にもなる。
でも、翌朝には一緒に山車を引いている。そんな“めんどくさい”つながりが、地域の絆を強くしている。高校卒業と同時に多くの若者がこの地を離れるのも、きっとその濃密さに息苦しさを感じるからだろう。私自身も、30歳で戻ってきたときはそうだった。近所付き合いは苦手だったし、祭りなんて面倒なだけだと思っていた。
でも「住めば都」とはよく言ったもので、長年暮らしていると、その“面倒”が唯一無二のものに思えてくる。誰かが困っていれば声をかける。何かあればすぐに言う。時にはぶつかる。でも、結局は笑って一緒に山車を引く。そんな関係性が、今の私を支えてくれている。
カーカリングの「頭が真っ白になった」瞬間に、誰かが寄り添ってくれるかどうか。それが、その人の未来を左右する。祭りでも、野球でも、人生でも、ミスは起こる。そしてその時、誰かがそっと寄り添ってくれるかどうかが、その人の立ち直りを決める。
私は今、鞆の浦に住み続けている。めんどくさいけれど、温かい。ぶつかるけれど、笑い合える。そんな場所だからこそ、帰ってきてよかったと思える。そして、そんな場所だからこそ、これからも語り継いでいきたいと思う。
カーカリングの一件は、単なるスポーツの一場面ではない。それは、人間の弱さと、それに寄り添う文化のあり方を映し出す鏡だった。そしてその鏡に映るものは、鞆の浦の祭りにも、私たちの暮らしにも、確かに存在している。
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