「この簡単な事件、俺が33分もたせてやる!」
2008年の深夜、フジテレビの土曜ドラマ枠で放送された『33分探偵』。堂本剛演じる鞍馬六郎のこの宣言を初めて聞いたとき、私は笑いながらも妙な違和感を覚えた。
出典:FOD – フジテレビ
第1話の舞台は結婚式場。新婦が刺殺され、血のついたナイフを持った男が即座に自供する。
誰が見ても犯人は明白だ。事件は解決したはずだった。
そこへ六郎が現れ、「果たしてそうでしょうか?」と首を傾げる。
彼は新郎、元恋人、着付け師と次々に無関係な人を容疑者扱いし、荒唐無稽な推理を展開する
肝心な部分は「なんやかんや」で誤魔化し、ツッコまれると「なんやかんやは、なんやかんやです!」と開き直る。
そして33分後、真犯人は最初に自供した男だと判明する。
六郎の推理はすべて的外れだった・・・
出典:www.amazon.co.jp
事件を「もたせる」とは何だろう。解決を引き延ばすことに、何の意味があるのだろう。
だが18年経った今、この作品が発していたメッセージが、ようやく腑に落ちる。
効率という名の呪縛
現代社会は効率を至上とする。タイムパフォーマンス、略して「タイパ」。動画は倍速で見るのが当たり前。移動中も、食事中も、入浴中も、何かを「消費」していなければ時間を無駄にしている気がする。
私たちは常に「意味」を求められている。この時間は何のためか。この行動は何につながるのか。目的のない行為は「無駄」として切り捨てられる。
鞍馬六郎の推理はすべて的外れだ。犯人は最初から分かっている。六郎の33分間の捜査は、結果だけを見れば完全に無駄である。しかし作品はその「無駄」を堂々と肯定する。むしろ、無駄をいかに魅力的に演出するかに全力を注ぐ。
チープなCGで空を飛び、荒唐無稽な推理を展開し、関係ない人を次々と犯人扱いする。「なんやかんや」で誤魔化し、ツッコまれると「なんやかんやは、なんやかんやです!」と開き直る。この潔さが清々しい。
無駄の中にある発見
出典:TVer
六郎の推理は間違っているが、まったく無意味ではない。捜査過程で事件の背景にある人間関係が明らかになる。被害者を巡る愛憎、隠された動機、社会の矛盾。結果は変わらなくても、プロセスには価値がある。
これは人生そのものではないか・・・
私たちが日々経験する多くのことは、直接的な成果につながらない。友人との他愛ない会話、目的のない散歩、ぼんやりと眺める夕焼け。効率だけを考えれば無駄だが、これらの「無駄な時間」が、実は生きることの本質なのではないか。
ドラマや映画を分析する私のブログも、ある意味で無駄である。作品を見て楽しめば十分なのに、なぜ何時間もかけて分析記事を書くのか。収入につながるわけでもない。でもこの「無駄」な時間が、私には必要だ。
33分という絶妙な長さ
なぜ33分なのか。それは45分番組からCM時間を引いた、実質的な本編時間だ。この設定が作品のメタ性を象徴する。
六郎は放送枠を埋めるために事件を引き延ばす。これはテレビ制作の本質を露骨に描写している。どんなに内容が薄くても、枠は埋めなければならない。エンターテインメント産業の裏側にある、少し切ない真実だ。
しかし33分という時間には、もう一つの意味がある。それは「集中して何かを楽しめる限界」に近い。
現代人の集中力は驚くほど短い。長い動画は見られない。長い文章は読まれない。でも33分なら、多くの人が付き合える。『33分探偵』は無駄を楽しむための、ギリギリの時間設定なのだ。
完璧である必要はない
出典:FOD – フジテレビ
鞍馬六郎は全9話を通じて成長しない。推理は相変わらず外れるし、血を見ると倒れる。最終回でも彼は変わらない。
これは意図的な設定だ。従来のドラマでは、主人公は困難を乗り越えて成長する。視聴者はその成長物語に感動する。だが『33分探偵』は成長を拒否する。
六郎は完璧な探偵ではない。むしろダメダメだ。でも彼は自分なりのやり方で33分間を全力で楽しむ。その姿勢が愛おしい。
私たちも完璧である必要はない。成長しなければならないというプレッシャーから、たまには解放されていい。今日の自分が昨日の自分と変わらなくても、それでいい。
六郎が間違えた人に送る「すみませんでした」の菓子折りのように、小さな誠意があれば十分だ。
2008年という時代
この作品が放送された2008年は、リーマンショック直前だった。金融危機が世界を襲う直前の、ほんの少しだけ余裕があった時代。
推理ドラマは飽和していた。視聴者は展開を予測できるようになり、ジャンルは成熟と疲弊の間にあった。その中で『33分探偵』は、既存のフォーマットを解体し、笑いに変えた。
あれから18年。効率主義はさらに加速した。SNSでは常に「意識の高い」情報が流れ、自己啓発と生産性向上の圧力は増す一方だ。
だからこそ今、『33分探偵』的な価値観が必要なのではないか。結果を求めず、プロセスを楽しむ。完璧でなくていい。無駄を堂々と肯定する。
私の33分
私にも「33分」がある。
朝のコーヒーを飲みながら、窓の外を眺める時間。特に何を考えるわけでもない。ただぼんやりと、時間が過ぎていく。効率的な人間なら「もったいない」と言うだろう。その時間で本を読めばいい、ニュースをチェックすればいい、と。
でも私はこの時間が好きだ。何も生み出さない、何にもつながらない、純粋に無駄な時間。この贅沢が、一日を始める活力になる。
ドラマを見て何時間も分析記事を書く時間も、私の「33分」だ。誰かに求められているわけではない。でも自分が楽しい。それで十分ではないか。
無駄を楽しむ覚悟
『33分探偵』が教えてくれたのは、無駄を楽しむには覚悟がいるということだ。
鞍馬六郎は批判を恐れない。推理が外れても、笑われても、彼は33分間を全力で楽しむ。その堂々とした態度が、作品に独特の魅力を与えている。
私たちも無駄を恥じる必要はない。生産性に結びつかない趣味も、意味のない会話も、ぼんやり過ごす時間も、人生を豊かにする大切な要素だ。
「時は金なり」という言葉がある。でも時間をすべて金に換算する必要があるだろうか。時間は時間として、ただ流れていくものとして楽しんでいい。
33分間、無駄な推理を楽しむ六郎のように。
効率という呪縛から解放されて、たまには堂々と無駄な時間を過ごしてみよう。その「無駄」こそが、実は人生で最も贅沢な時間なのかもしれない。





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